久保柳商店の様子

若い衆は住み込み、ベッドは革の拝見台

先代の久保田柳治が、昭和17年に個人で創業し、25年に株式会社久保柳商店を設立。最初は東浅草でしたが、私が入社した時は、今の場所(浅草6丁目)に移ってました。

当時は、若い衆は、ほとんどが住み込み。拝見台、革を広げて見る台が、今もありますでしょう。夜は、あの上に寝てました。だから拝見台の下が戸棚になっていて、そこに蒲団が入れられるようになってました。それを二つ並べて、二人で寝るんですが、寝相の良くない人は、しょっちゅう落っこちてました。この辺の革屋さんで働いている、私くらいの年代の人のほとんどが経験していると思いますよ。

そして、配達は自転車。当時、革は一尺四方を一坪と数え、10枚一括りで畳んで納めていました。今は6枚一括りで巻いてますが、こうなったのは、昭和34年に尺貫法が改正され、坪から10センチ四方のデシに単位が変わってからです。だから今の一巻きより重い訳で、20枚配達するのはたいへん。荷台に二包み積むんですが、勾配がきつい道は、前が上がってしまい、自転車がこげない。千住大橋は、こげなかったですね。仕方ないから、荷台から一つ下ろして橋のたもとに置き、一つ上げて、戻って来て、もう一つを上げた。こんな悠長なこと、今じゃ考えられないです。自転車からラビット(スクーター)になった時は、楽で楽で。その後、ミゼット、そしてダットサンのトラックになりました。

久保柳商店の様子

圧着が婦人物、そして色革をヒットさせた

昭和30年代になると、靴の製法が圧着に変わり、婦人物が爆発的に売れるようになりました。そうなると、革もそれまでの10倍、1000足単位の注文になりました。またそれまでは紳士物が主流で、革は黒、茶、チョコ、白の4 色しかありませんでしたが、婦人物が売れるようになったことで、色物の需要が出て来て、これにいち早く対応したのが、東京クシハラさん。「色革ならクシハラ」と売り出し、大ヒットを取りました。

この辺の地図はずいぶんと塗り変わりました。今、婦人靴卸の阿部さんがあるところ(浅草6 丁目)は、昔は猿若公園という公園でしたが、今、藤田さんがあるところにいた櫛原さんが、猿若公園を買って社屋を建てました。そして昭和40年頃、符余曲折を経て今のような地図になりました。当時は、浅草6丁目、7丁目界隈に革屋が優に30軒はありましたが、今は両手で数えられるくらいになってしまいました。

ヨーロッパに比べると、革、靴の歴史が浅いとは言え、明治から140 年、戦後はや60年余り。もっと革、靴への理解が深まってもいいと思うのですが、まだヒールが全部履けると思いリフトがすり減っても平気な人が多いし、革についても水に漬けると縮むことがクレームになることもあります。革を正しく理解し、より革に親しんでもらうために、消費者PR にカを入れています。

─SHOEPHILEZATS シューフィルザッツ 2008(平成20) 年4月1日号

特集記事「語り継ぐ浅草」より抜粋


久保田清人

語り手:久保田清人【くぼたきよと】
株式会社久保柳商店取締役会長


1935 年、長野県生まれ。新制中学卒業と同時に上京、久保柳商店入社。86年、代表取締役社長に就任。